すべてがFになる

アニメ「すべてがFになる」




あらすじ(ネタバレなし)

第1回メフィスト賞を受賞した森博嗣のミステリー小説を原作としたアニメ作品。

研究室のゼミ旅行で、妃真加島(ひまかじま)を訪れた犀川創平(さいかわ そうへい)たち。その島には、ハイテクな研究所・真賀田研究所が建っていた。
その研究所で、長年隔離されて暮らしてきた天才博士・真賀田四季が殺されるという事件が起こる。真賀田博士は手足を切断され、ウェディングドレスを着た状態で、隔離された部屋から台車に乗って現れる。
偶然その場に居合わせた犀川と、その恩師の娘・西之園萌絵(にしのその もえ)が、完全な密室殺人の謎を解き明かそうとするのだが・・・。

感想(ネタバレなし)

原作よりも、人と人との繋がりを重視した作りになっていたように思います。

ストーリーに関するほとんどの感想は、小説を読んだ時の感想に書いてしまいました。
小説「すべてがFになる」の感想や解説のページはこちら
そのため、原作とアニメ版の比較のような記述が多くなりますがご容赦ください。なお、私は原作厨ではありません。「原作と同じものならば、新しく作る必要はない」と常々口にしてるほど、「もっと自由に作り変えちゃいなよ!」って思っているタイプの人間です。
すべてがFになるは、ストーリーもミステリーもほぼ原作通りになっていました。尺の関係もあるので、語り漏らしている部分も大いになるのですが、その代わりに、犀川先生と西之園萌絵の関係や、真賀田四季博士と、博士が愛した新藤清二との関係がより多く語られていました。

特に真賀田四季と新藤所長の関係が描かれたことは非常に重要で、真賀田四季の行動原理に(わずかに)説得力を付け加えていたように感じました。その代償として、真賀田四季がやや人間臭くなった感じもしました。それが良いことかどうかは、見た人によるかもしれません。人間臭いキャラクターが大好きな私は、大いに歓迎します。

それと、これはメディアの特徴というか、メリットデメリットのお話なのですが、アニメ版はテンポが速くて、頭の回転がついていけないシーンがいくつかありました。小説だと理解するまで何度も読み返せるので、その点は便利なのですが、アニメは録画でもしていないかぎり、一時停止してゆっくり考えることができないので「ちょっとちょっと待って!」って思ったりしました。代わりに、小説では「これは理数系弱い人には厳しいかも」と思ったシーンも、アニメではビジュアルを使って説明されていたので分かりやすかったです。

まとめて言うならば、原作を読んだ人にもアニメを見てほしいですし、アニメを見て面白かったと思った人にも是非小説を読んでほしいです。
アニメではキャラクターたちの繋がりをより一層楽しんで、小説ではミステリーの魅力をより一層楽しんでいただきたいと、ひとりのすべてがFになるファンとしてお薦めしたいと思います。
決してFanの頭文字がFだからファンという単語を使ったわけではありません。ぐ、偶然です。偶然。
こんなしょっぱいダジャレを言ってしまったら、犀川先生の意味の分からないハイセンスギャグに申し訳が立たない。

感想(ネタバレあり)

ここから先は、物語の核心に触れる記述があります。まだこのアニメを見ていない方はご注意ください。


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まず最初に言っておきたいのは、「山根さん殺されなくて良かったね!!」です。
OSをレッドマジックからUNIXに切り替えたあと、しれっと山根さんがしゃべってるのを見て、「生きてるじゃねぇか!」って、まぁ思いましたよね。才能があったが故に殺されてしまう運命にあった可哀想な山根さんが死ななくて本当に良かった。
正直、尺の関係で殺されなかったのでしょうが・・・・。

私がアニメ版で好きな所は、まず、西之園萌絵が犀川先生にガンガン迫ってたところですかね。この演出のおかげで、西之園君の好感度がワンランク上がりました。というより、西之園萌絵と犀川先生の関係性に好感を持てました。犀川先生はのらりくらりと西之園萌絵をかわしながらも、いつでもちゃんと近くで見守っている微妙な距離感。まだまだ犀川先生には迷いがあって、ある程度の距離を保っておこうとしながらも、これからの進展を思わせるような、希望のある見せ方をしていたのが良かったと思います。
最終話で犀川先生と真賀田四季博士が直接会って話をして、犀川先生の中でいくつかの気持ちに整理がついて、そのあとに萌絵に会った時のちょっとした態度の変化の描き方なんかは、凄く丁寧で爽やかでした。

もうひとつアニメ版で好きなところは、真賀田四季博士と新藤所長の「恋」の部分が描かれていたところです。小説では全く語られていませんでしたね。年端もいかない四季博士と子供を作っちゃうなんて、なんというロリコンか!!とも思いましたし、そのうえ四季博士の両親殺しに関与するなど言語道断とも思いましたが。ま、まぁ、相手が真賀田四季博士ですし・・・。

新藤所長といえば、新藤所長が殺されるシーンは、アニメ版はちょっと演出側に偏りすぎた気がします。ふたりの「愛情の深さ」を描きたいが故に、所長がヘリコプターから降りて、ふたり抱き合った後にナイフを突き刺すのですが、あれ、あの後またヘリコプターに乗るのは相当大変だと思うんです。抱き合わせたかったのはわかりますが、ちょっとミステリー的には穴を作った感がありました。ただでさえちょっと無理があったのに。

それはともかくとして、この、ふたりの恋愛の部分を描いたことは非常に重要で、これによって真賀田四季博士の最終話でのセリフは、更に重みが増すことになります。
「たぶん、他の人に殺されたいのね。」「自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか?」「自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」
「死」と「愛」を同時に語る四季博士には正直ついていけないのですが、でも、この感情を全く理解できないとは思いません。四季博士と新藤所長の恋愛を描いたことで、より一層「わかる」ような気がしました。
結局、四季博士は警察の目をかいくぐって逃げてしまうので、このセリフをどこまで本気で言ったのかは分からないのですけれどもね。こういうしっかりと語りきっていないところが、「すべてがFになる」の魅力だったりしますね。はい。

それにしても最後の四季博士の逃亡はホント笑っちゃいます。お茶目というかなんというか。あの最後のエピソードだけでも、真賀田四季というキャラクターの魅力が十分に語られていたような気がします。
小説でも笑ってしまったのですが、アニメの方がもっと爽快鮮やかに描かれていて、より笑ってしまいました。

ミステリーとしてはかなり重厚ですし、真面目で重いテーマもたくさん含まれているのですが、ふと見せる四季博士の茶目っ気や、ときどき挟まれる犀川先生のシュールなユーモアや、そして何よりも、いろいろなことを抱え込み、多くのことを考えながらも天真爛漫でいる西之園萌絵によって、ポップでシリアスでミステリアスな、不思議な作品に仕上がっていたと思います。

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ぺんぎん

ぺんぎん の紹介

物語をこよなく愛する一般人。 物語ならば、映画、小説、アニメ、ゲーム、マンガなどなど、形態は問いません。ジャンルや作者に縛られない濫読派。
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