門

小説「門」 夏目漱石




あらすじ(ネタバレなし)

貧しいが、静かにゆったりとした生活を営む夫婦のお話。
かつては裕福で派手な生活を送っていた宗助だが、今では週6日役所で働き、唯一の日曜日の休日の慰めを糧に生活している。妻のお米も不平を言うこともなく、その暮らしを続けていく。

感想(ネタバレなし)

冒頭から「リア充乙」な描写で参りました。いや、和みました。私はリア充を見ているのは好きです。ノロケ話とか聞くのも好きです。
宗助・お米夫妻の雰囲気がとても良かったです。近くにいて、お互いの存在を意識しながらも、それぞれ別のことをやっているのっていいですよね。信頼関係とか、安心感とかを感じます。
「なにそのジジババ。」と言われてしまえばそれまでなのですが・・・。

夫婦にいろいろな出来事が起こるのですが、それほど劇的に何かが起こることはありません。全体的に穏やかです。落ち着いて読めました。

「三四郎」「それから」に続く三部作の最後の作品ですが、特にクライマックス的なこともなく、普通にひとつの作品として読んでも良いなと思いました。

感想(ネタバレあり)

ここから先は、物語の核心に触れる記述があります。まだこの小説を読んでいない方はご注意ください。


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「三四郎」「それから」「門」がなぜ三部作と呼ばれているのか、実はあんまりピンときていません。確かに、「それから」の主人公は最後、仕事もせずにプラプラしている裕福な人間ではいられなくなり、友人の奥さんを奪ってもいますので、「門」の主人公の最初の設定にはつながっています。宗助が昔は裕福で、友人の恋人を奪ってしまった過去を持つことにつながっています。「それから」の代助が最初あんなに嫌がっていた「生活に追われて仕事をする」人間が、「門」の主人公なわけです。
ですが、主人公の名前も違いますし、設定も他のところは全然違いますし、「これで三部作と呼んでしまっても良いのか。」という気持ちでいっぱいです。ジャンル的にも「恋愛小説」ということで三部作なのでしょうか。

三部作といえば、「三四郎」と「それから」で登場した、「よくってよ。知らないわ。」が口癖の、バイオリン弾きの妹キャラが登場することを期待していたのですが、残念ながら登場しませんでした。せっかくの三部作なのに・・・・。「門」の中で一番期待していたところだったのに。
これで三部作と言ってしまって本当に良いのだろうか。(←そこじゃない)

作品の雰囲気は、冒頭からとても良かったです。
宗介が縁側の暖かいところで横になり、そこから見える部屋の中でお米が裁縫をしている。ふたりは二言三言、ポロポロと言葉を交わしたりしながら休日を過ごす。
なんという穏やかで心安らぐシーンでしょう。これ、小説の1ページ目です。こんなふたりの姿を、最後まで見せつけられます。こんちくしょう!

とはいえ、ページを進めていくと、ふたりには暗い過去があることがチラチラと分かっていきます。
お米は以前、宗助の近しい友人の安井の同棲相手だったということが後で明かされていきます。まあ、明記はされていないのですが、文脈からしてそういうことだと思います。
夏目漱石もそうですが、クラシックな文学の、こういう「ハッキリとは書かないけれどもそれなく匂わせる」部分が好きです。説明のし過ぎは興ざめというやつです。
宗介とお米と安井の三人のエピソードは、この小説の超重要シーンだと思うのですが、数ページしか書かれていない上に、はっきりと「奪った」とは書いていません。
こういうのかっこいいです。

暗い過去といえば、ふたりの子供のエピソードも結構ヘビーでした。三度子供ができたが、どれも育たなかったというエピソードです。
安井からお米を奪った話よりも、この子供を失った話が先に登場するので、ふたりの間にチラチラ見える暗さは、子供のことなのだとばっかり思っていました。
そんな過去があるのに、「子供は賑やかで良い。」とか平気言っちゃう宗介は、デリカシーがなさ過ぎます。昔の男もっとしっかりしてください。

昔の男もっとしっかりといえば、昔の小説を読んでると、「え?こんな適当なことでいいの?」って思うことが結構頻繁にあります。
「門」では、宗助の父親の遺産として受け継いだ屋敷の売却を、叔父の佐伯に口約束で丸投げしてしまったり、そこから弟の小六の学費の件に至るまで、適当さの極まりでした。
丸投げされた屋敷を売った佐伯は、その金で他の家を買って火事にして消失しまうし、その他に宗介から小六の学費としてお金を受け取っていたにも関わらず、佐伯の死後、もう学費が払えないからと言って小六を追っ払ったりして、「いやいや、そんなことが許されるのかよ・・・。」とホトホト呆れてしまう程の適当ぶりです。
確かに丸投げしてしまった宗助も良くないのだけれども、そこはもっと強く責めてもよいのではないかと。

タイトルの「門」ですが、これはお話の終盤で語られます。
安井に対して後ろめたい気持ちを持ったまま暮らしてきた宗助なのですが、ある日、最近よく話すようになった家主の坂井から安井の消息を聞いた上に、今度家に来るから良かったら会わないかと誘われます。
この下り、もの凄い偶然すぎて、ちょっとやり過ぎだろうと思いました。家主の息子がモンゴルで出会った人間が、宗助の昔の友人だったなんて、話が出来過ぎです。やり過ぎです。

それはともかく、安井に会うことになるかもしれないと思った宗助は精神のバランスを崩し、療養という名目で、寺で座禅することにします。逃げたということです。
そこで宗助は「悟り」について考えますが、全く上手くいく気配はありませんでした。
そこで宗助は、「自分は門を通ることはできない。でも門まで来ずにもいられない。意味は無いのだけれども、自分は門を開けられず、ただ門の下に立ちすくんでいる人間なのだ。」と気づきます。それに気付いただけでも大きな成長だと思うのですが、宗助は自分に失望し、トボトボと家に帰ります。

さあ!ここからクライマックス!!って思うじゃないですか?それが、ここからは大いなる肩透かしです。
なんと、安井は宗助と遭遇することなく、モンゴルへと帰ってしまうのです。そして今までと変わらない日常が戻ってくるのです。
つまり、何も起こらないのです。三四郎を読んだ時も思いましたが、何も起こらないのです。ここまで伏線を張っておいて、まったく回収しないという潔さです!現代小説なら許されない。

まあ、「伏線を回収しない。」というのはやや冗談です。
小六を坂井の元へ書生へ出し、宗助の給料も上がり、いろいろな懸案が片付いて日常が戻ってきた後に、お米は「ようやくのこと春になって」と、ポジティブな発言をするのに対し、宗助は「うん、しかしまたじき冬になるよ」というセリフを残す。
この後の宗助を暗示したということで、この一言で伏線を回収したと言ってもよいと思います。

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ぺんぎん

ぺんぎん の紹介

物語をこよなく愛する一般人。 物語ならば、映画、小説、アニメ、ゲーム、マンガなどなど、形態は問いません。ジャンルや作者に縛られない濫読派。
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