harmony

映画「<harmony/>(ハーモニー)」 なかむらたかし・マイケル・アリアス

あらすじ(ネタバレなし)

健康が最も大事とされ、個々の身体自体が公共の資源とされる社会。高度な医療技術によってほとんどの病気は克服され、人々がお互いを思いやる優しい社会。
そんな社会に息苦しさを感じる3人の少女たち・霧慧(きりえ)トァン、御冷(みひえ)ミァハ、零下堂(れいかどう)キアン。彼女たちはその世界に、「自分は自分だけのもの」であることを示すために自殺を図る。
しかし、ミァハだけが死に、トァンとキアンは生き残る。
その後トァンは、紛争地での調停役を務める国際機関・WHOの螺旋監察事務局の監察官としてニジェールへと赴く。
しかし彼女の目的は調停ではなく、健康至上主義では窘めなくなった酒とタバコを楽しむためだった。
そんな中、世界の根幹を揺るがす事件が起き、トァンは再び過去のミァハの問いに向き合うこととなる。

感想(ネタバレなし)

これは伊藤計劃からの、人類に対する挑戦状である。

伊藤計劃の原作が大好きで、ワクワク楽しみにしながら映画館へと赴きました。そのため、かなり贔屓目な感想になるかもしれません。
しかし、原作が良かったのに映画は大コケなんてこともありますので、安心はできませんでした。ほら、模倣犯とか最終兵器彼女とか、ホントゴミのような映画でしたし。
最大の懸念は尺です。映画では尺が足りずに端折り端折りになることって多いじゃないですか。
ハーモニーは、ストーリー構成も練り直していて、あれだけ多くて複雑なテーマをほとんど全部詰め込められていたと思います。見事でした。

私は原作を読んでいますので問題ありませんでしたが、ちょっとテンポが早い上に考えることも多いので、ボォーっとしてると置いて行かれます。集中して見てください。
テーマは「人であることの意味」という大きなものになっています。置いていかれないように、集中して見てください(2回目)。

正直、人生にそれほど多く出会うことはないであろうというレベルに好きな映画です。小学生の時に見たレオンや、中学生の時に見たユージュアル・サスペクツのような(いや、もっと激しいかもしれない)衝撃を受けました。屍者の帝国を見て「イミワカンナイ」って思った方も、ハーモニーは是非!ホント凄いから!

主役のトァンを演じたのは、私の大好きな沢城みゆきでした。イメージ通りのキャラクターになってて素晴らしかったです。
が、ここで推したいのはミァハの役を演じた上田麗奈です。私のイメージと全く違う演技をしていたのですが、これが非常に良かったです。今ググったら、他に演じた役は、ハナヤマタの関谷なる役とか、対魔導学園35試験小隊の鳳桜花とか多彩すぎ。注目したい声優さんです。

ちょっと話は変わりますが、どうしても言っておきたいので言わせてください。
今回初めてTOHOシネマズのTCXというのを体験しました。TCXっていうのは、すっごく大きなスクリーンがあるよってことなんですが、すっごく大きかったです。超大迫力で超大満足でした。
あれはとても良いものです!

関係ないことをもう一言だけ。ユリごちそうさまでした!
序盤でミァハがトァンのおっぱいを鷲掴みするのですが、私(おっさん)の心も鷲掴みにされました。ありがとうございました!!

感想(ネタバレあり)

ここから先は、物語の核心に触れる記述があります。まだこの映画を見ていない方はご注意ください。


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まず何よりも賞賛したいのは、物語の設定です。
21世紀初頭に、大災禍(ザ・メイルストロム)と呼ばれる英語圏を中心とした暴動や戦争に教訓を得て、その再来に怯える数十年後の世界という設定です。因みにこの「大災禍」というのは、虐殺器官のラストのことだと思われます。
当初の政府という概念はなくなり、民主主義や資本主義に代わり、健康と幸福を社会の基盤とする健康至上主義が台頭。新たな統治機構「生府」の下で、人々は自分とお互いの健康を気遣いながら生きている。
その監視機関の名前は「WHO」だし、現代の健康志向を見ていると、技術の進歩自体では本当に起こりうる未来に見えます。
映画の中では、体内に「WatchMe」というものを入れ、健康状態を常時監視、異常があれば知らせ、その治療に必要な薬をメディケアというディバイスで精製し病気を根絶するという技術が確立しています。
人類がこの技術を手に入れたら、放っておくわけがありません。

そんな健康と優しさに満ちた世界に憎悪を抱く少女たちの気持ちにも共感できます。ミァハが「優しさに殺される」と発言したのも分かります。自分の身体が監視され、データ化され、蓄積される。自らの身体を公共のリソースとする。そんな世界にいたら、多感な十代は反発して「自分は自分のものだ!」と主張するのも当然のことだし、それ故に子どもたちの自殺率が上がるのも当然の結果でしょう。
こういった設定の自然さというか、当然起こりうる感じが見事です。

原作ではこういった設定が、序盤でトァン、ミァハ、キアンの3人のエピソードをもとに説明されているのですが、映画ではまず事件が先でしたね。世界各地で同時に多くの人間が自殺するという事件です。この構成は良かったと思います。とにかくスピーディーでした。
事件が起こってしまえば、もう物語は突っ走るしかありませんから。
その中で設定の説明や過去のエピソードを織り交ぜていけば、緩急つけながら進めていけます。尺の問題もありますし、本当によく出来ていたと思います。

もう結末を知っていたからしれませんが、私はその事件のシーンで既に泣いていました。キアンの「ごめんね。ミァハ。」で完全に泣きです。
キアンもトァンも、自分が一緒に死ねなかっとことに罪悪感を持って生きていたし、かつて憎悪したその世界にすっかり馴染んだように見えるキアンでさえ、その過去に縛られて生きてきたんだなって感じて。キアンがその自殺者の一人になったのは偶然だったけれども。しかもミァハ生きていやがったし!

分からないのはミァハですよ!「この身体は私のもの。このおっぱいもアソコも太ももも全部自分のもの。」とか言っていたのに、「トァン行こう。ハーモニーの世界へ。」って、主義変えすぎじゃないっすか?

話が少し飛んで、テーマの話をします。
人はひとつの意思決定をもとに「魂」と名付けているが、実はそれは間違えである。意思決定は、脳の中の様々な欲求のせめぎ合いの結果である。物語の中では、会議を例えにしていました。脳の中でいろいろな欲求が会議をして、そこでなされた決定が行動して現れる。その際に決定の大きな要因となるのが報酬である。しかし多くの生物は、長期的な大きな報酬よりも、短期的な小さな報酬を選択する傾向がある。例えるなら、今1万クレジットもらえるか、1年後に2万クレジットもらえるかと問われれば、多くの人が今の1万クレジットを選択するだろうということ。それは合理的ではない。だから脳内の報酬系をちょっといじって、合理的な判断ができるように操作してしまえば良い。これは大変魅力的に聞こえるのですが、副作用がありました。
意思決定の会議が開かれないのならば、つまりそこに意識はないということです。合理的な判断ができているので、他から見たらその人の行動は普通なのですが、本人には意識はない。
さて、これは生きているということでしょうか。生きているとは何なのでしょうか。
短絡的で頭の悪い犯罪に手を染める人間もいないし、みんながみんな優しのなかで生きていける、合理的で幸せな世界。それでも生きていると呼べるのでしょうか。

ですが、ミァハはそんな世界を求めます。なぜでしょう。ぼんやりと説明はありました。
ミァハは、住む人の多くが意識を持たないという部族の出身でした。つまり、産まれた時からハーモニーの世界の人間だったのです。
その後彼女はロシアの軍に捕らわれ、何度も何度も犯され、その苦痛と恐怖の中で意識を獲得したのです。
実際に意識を司る脳の部分は無いのですが、脳の他の部分がそれを補完して、意識を擬似的に作り上げたようです。
そしてその後日本へと移り、その優しさに殺されそうな世界を体験する。
つまり、ミァハが意識を持ってからは、銃で殺されるか、優しに殺されるか、2つに1つを選ばなければならなかった。選ぶくらいなら死んだほうがマシだと思っていた。そんなときに、「次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ」に接触して、意識の喪失という可能性に触れた。意識を得る前のあの幸せな頃に戻りたいと思ったのかもしれません。
ミァハのこの行動は私もイマイチ理解できていないため、こんな解釈になっています。正直なところ納得はしていません。
あとで自分が忘れてしまいそうなので、健忘録的に自分に解説しておきました。

ミァハの話が盛り上がったので、このままラストシーンのお話をします。このラストは少し物議を醸しそうですね。
原作では、トァンがミァハを殺す理由は復讐でした。父と、キアンという友達を殺されたことに対する復讐でした。だからトァンは2発撃った。キアンのぶんと父さんのぶん。そしてふたりは許し合い、ハーモニーの世界は完成する。美しいラストでした。
映画では、トァンがミァハを殺す理由は愛でした。「そのままのミァハでいてほしい。」「愛してる。」。トァンは、意識を持たないミァハでいてほしくなかった。自由で奔放で、物知りで頭が良くて、身勝手で我がままなミァハでいてほしかった。だから愛を告白し、殺した。美しいラストでした。だがなんというヤンデレ。

いずれのラストも私は好きです。「原作と全く同じならば、他のメディアで作る必要はない。」と常々口にしている私ですので、こういうことしてくれる監督は大好きです。
「最後の最後でよくやってくれた!」と思いました。

他にも細かいところで好きなシーンがいくつかありました。特に好きだったのは、ニジェールで部族の人たちと、酒とタバコの取引をするシーンです。
部族の人が健康至上主義のことを指して、「あなた方は程々というものを知らない。勢い余って信仰を我々に押し付ける。それが争いの火種になると気づかずに。」と言うセリフは、現代の民主主義や資本主義に対する皮肉に聞こえました。正しさや善は、全員が必ずしも同じものを指すとは限らないということを改めて感じさせてくれました。

最後に、映画の最初と最後に出てきたシーンについてちょっと解説を入れておきます。
変な白い塔みたいなやつに文字が出てくるシーンです。あの文章は「etml」なのですが、これはもちろん「html」を元にしています。インターネット上のホームページは「html」という言語を使っています。この言語の中では、例えば、「<b>ここに文字を入れる</b>」と記述しておくと、そのページを見た時には「ここに文字を入れる」と、太字で表示されます。<b>が「太字で表示してね」記号です。「ここの間は文字をこういうふうにして表示させてね。」と命令しておくのです。
で、映画の中では「<regret></regret>」や「<anger></anger>」などと書いてありました。regretは後悔、angerは怒りという意味です。
ハーモニーの世界へと行ってしまった人類は、もう感情というものを理解できません。だからその感情を擬似的に体験するために、etml言語で記述しておきます。「ここの間はこういう感情を起こさせてね。」と命令するのです。

原作では、作中にちょいちょいこのetmlが登場していて、ずっと何なんだろうと疑問に思いながら読んでいくわけです。
そして何もかもが終わった後に、ハーモニーの世界での言語体型だと分かるのです。そしてそれと同時に、ずっとトァンの一人称で語られていると思っていた小説が、実はトァンよってに書かれたetmlを読んでいる人物の視点だったというとんでもない事実をつきつけるのです。このびっくり仰天を映画ではどうするのかと思っていたのですが、さすがに無理でしたね。そういう感じの描写はありましたが、あれだけでは観客は理解できないでしょう。
でも、それ以外の所は本当に原作に忠実にできていますし、小説とは違う解釈も入れられていて大変満足でした。
贔屓目な評価をしている分を差し引いても、最高の出来でした。最高か!

それと重ねて言いますが、ユリごちそうさまでした!
本当にありがとうございました!!

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ぺんぎん

ぺんぎん の紹介

物語をこよなく愛する一般人。 物語ならば、映画、小説、アニメ、ゲーム、マンガなどなど、形態は問いません。ジャンルや作者に縛られない濫読派。
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